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家宣・家継・吉宗と「大奥」の関係

「将軍」と「大奥」の生活㉙

■8代吉宗は財政改革に取り組む一方で、男子たちが無事に成長

【吉宗と大奥の主要人物と子女】

 吉宗(よしむね)は紀州徳川家の第2代藩主・徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれた。母の由利(浄円院/じょうえんいん)が、女中として湯殿番をしていたときに光貞の手が付いた。22歳になった吉宗は宝永3年(1706)、紀州藩主に就任。伏見宮貞致親王(ふしみのみやさだゆきしんのう)の娘・真宮理子(さなのみやまさこ)を正室に迎えた。理子は宝永7年に女子を懐妊するが流産し、体調悪化により20歳の若さで亡くなった。よほどに心痛であったのだろう、吉宗は以後、二度と正室を迎えなかった。

 

 同じく紀州藩主時代の正徳元年(1711)、側室に迎えていたお須磨(すま/深徳院/しんとくいん)が江戸中屋敷で長福丸(ながとみまる/のちの家重)を産んだ。お須磨は紀州藩士の大久保忠直(ただなお)の娘であった。翌正徳3年には次男を産むも難産で翌日に子は亡くなり、お須磨も翌月に26歳で世を去ってしまう。

 

 続いての側室、お古牟(こん/本徳院/ほんとくいん)も紀州藩士の娘。正徳5年に小次郎(のち田安宗武/たやすむねたけ)を産み、享保元年(1716)に吉宗が将軍に就任すると、ともに江戸城に入った。だが享保8年、28歳で他界する。

 

 お梅(うめ/深心院/しんしんいん)は吉宗の母・浄円院(じょうえんいん)の女中を務め、やがて吉宗の寵愛を受ける。お古牟と同様、吉宗に従って江戸城に入り、享保6年に四男小五郎(のち一橋宗尹/むねただ)を産んだが、同年10月に22歳で病死した。

 

 このように吉宗は妻たちに相次いで先立たれるが、例外がお久免(くめ/覚樹院/かくじゅいん)だった。浄円院の女中をしていた彼女は芳姫(よしひめ)を産み、寛延4年(1751)に吉宗を看取り、安永6年(1777)、81歳まで生きた。

 

 吉宗は享保の改革で財政改善に努めたが、大奥にも「女中法度」を出して倹約を促した。自身の側室、お梅やお久免を招いたとき、女中たちが衣服や調度品を新調しているのを知り、これを咎(とが)めた一方で、女中の年金や退職金の制度を取り決めるなど整備は多岐に及んだ。若くして紀伊藩の藩政改革を成功に導いた手腕は、大奥でも発揮された。

 

監修/畑尚子、文/上永哲矢

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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